《※現代風味》
鍋の中を泳ぐ切り身を見て水槽を思い浮かべる人間は稀だろうが、水槽を見て鍋が食べたいとのたまう人間はどうだろう。
先輩は繊細さの使いどころ考えたほうがいいっすよとのやわらかめの忠告を腹減ったもんの一言で片づけ、水族館を出たそのままの足でスーパーの鮮魚コーナーに向かう欲求への忠実さ。赤札にはまだ少し早い魚のパックを吟味する姿に、買い物カゴを持つ後輩が心の中で拍手を送った。
三等賞。一組二名様ペアチケット。新しくできた大型水族館にもっぱら客足をとられている地元の水族館。微妙なところをついてくる商店街の福引きの景品ラインナップに思いを巡らす平日。人気も人気もないっすね…ともらしたトビが無駄にするには忍びないと言うからこうなったものの、当てたのはデイダラの方だ。新聞の粗品なんかも近いものがあるよな。とってないけどさ、などと言う魚は見るより食べる派の彼曰く、そもそも水族館は誰かと来るには向いていないらしい。言うなれば展示なのだからそれぞれが見たいものを見たいだけ見ればいいと持論を述べる姿に、気にしないで好きなだけどうぞと返す殊勝さも持ち合わせているのに。その分お魚見てる先輩見てますんで。後に起こり得ることがわかっていて、わざわざ言葉を選んで付け加えるのがトビという男。案の定チケットが紙屑と化しかけたのをすんでのところで回避し、こうして一番目玉の大水槽の前に揃って立っているのだからいっそおそろしい。いろんな意味で。
ガラス一枚隔てた先には別世界が広がっている。圧迫感、恐怖感、浮遊感、違和感、高揚感、どれでも選び放題。人がつくったはずなのに途方もないものに思えて、いとも容易くのみこまれてしまいそうな。青は心を落ち着かせる色。そうは言っても。狭い視界で覗いたそれから目を逸らして隣を見れば、同じ色した眼が魚の動向を追っていた。息をついた面の内、邪魔にならないように口を開いたつもりが拾われて会話がはじまる。館内でまともに話したのはここだけで、あとは二人ともがめずらしく静かだった。
「水槽の中で飼われるのってどんな気分なんでしょ」
「海を知ってるか知らねえかで変わってくんじゃねーの。案外居心地いいかもしんねえし」
「先輩の水槽になら飼われてもいいなあ」
「海に返すぞ」
「ボク海知らないですから」
どうやって生きてったらいいかわかんないですよぉ、なんて溺れる真似をしてみせるトビにデイダラは怪訝な目で応える。あ、それか。意に介した様子もなく勝手な話は続く。先輩は海の上飛んでる鳥さんで、それにひと思いに食べられちゃうとか!立てた人差し指で宙に短く弧を描いてみせて。ほら、トビウオ。洒落のつもりか。自分の名前に掛けて例に挙げた魚は、あいにく目の前の水槽にはいない。
「それもいいなあ」
「なにがいいなあ、だ。お前なんか食ったら食中りおこすっての」
「そっか、ですよねぇ」
すっ、と。息と一緒に吸い込まれたような静けさに、泡の音でも聞こえそう。ごぼごぼ、ぷかぷか。再び動かしたのはそのどちらでもなく、深海で渦巻いているような面を小突いた音と、あてっという小さな声。ここはガラスの外側だった。
人影もまばらなローカル線で船を漕ぐ金色にあたってゆれる夕日が眩しくて目を閉じた。次に目を開けた時、最初に聞こえた声が言う。鍋食いたい。なべ、鍋。魚入ってるやつ。電車の窓に透けて映る車内の景色が流れて、まるで水槽のようにみえる。あの水槽にいた魚も、何かが違えば泳ぐ場所を鍋の中に移したかもしれない。最寄り駅はみっつ、乗り過ごしていた。
陳列棚を眺めながら、真空パックって一瞬と永遠どっちっすか?などと尋ねるトビに賞味期限がある以上永遠じゃねえだろと返すデイダラ。カゴの中には寄せ鍋の材料が二人分。魚は鱈になったようだ。白菜、人参、長ねぎ、えのき、豆腐、お好みの魚介類、そんな文字が羅列された鍋の素のパッケージ。表には二人分の文字。二人で、食べきれるだけの。カゴを任せて自由に散策するデイダラが何かを見つけて手招きする。
「このちくわ原材料トビウオだってさ」
「鍋の具には向かないんじゃ」
「おでんやろうぜ今度、うん」
「じゃあ賞味期限見てなるべく…」
「オイラが食うっつってんだからいいんだよ」
カゴに飛び込むトビウオ。さて買い物はおしまい、とばかりに手ぶらにもかかわらずまっすぐレジに向かう背中に、後輩からおまけの一言が飛んでいく。先輩、アイスは?オレンジで。振り向き様に返された声を受け止めそこねて、頭の上で一度跳ねる。
「…了解っす」
オレほんとに食べられちゃうんじゃないかなあ、なんてつぶやく声色はきっと裏腹。そうだとしても自業自得。はやくしろよと急かす声でカゴの中に最後に加わったのはオレンジと、レモンのシャーベットだった。
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ふたりで鍋つつくトビデイちゃんくそかわとおもって書き始めたはずが鍋食ってない
トビウオは天ぷらがおいしいらしいよせんぱい!
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